大坂の陣 400年 天下一祭 一番櫓・千貫櫓・多門櫓・金蔵 特別公開を観に行って来ました

投稿日:2014/11/12 更新日:

今年は大阪城はお祭りムードです。今年も秋に行われる重要文化財の内部公開を観に行って来ました。特に今年は、一番櫓も半世紀ぶりに公開です。

毎年時間があれば大阪城に遊びに行っていますが、特に今年は賑やかです。大阪城では、大坂の陣400年記念のイベントが多かったり、お城内でも屋台や特設会場があったり、例年になく華やかになっています。

秋になると結構毎年行われる重要文化財の櫓等の内部公開があります。今年の目玉は何と言っても一番櫓の内部公開。半世紀ぶりに内部公開されました。

重要文化財特別公開ののぼり

重要文化財特別公開ののぼり

一番櫓

重要文化財 一番櫓

徳川幕府による再築大坂城は、元和6年(1620)から寛永6年(1629)にかけての3期にわたる工事によって完成しましたが、一番櫓はこの内、第3期工事中の寛永5年(1628)に築かれました。第3期工事では二の丸南側の構築が進められ、高石垣の構造に続き、上に2層2階の隅櫓のが計7棟経てられました。櫓は東側から順に「一番櫓」〜「七番櫓」と名づけられています。
一番櫓は高さが約143メートル、面積は1階が約167.98平方メートル、2階が約96.31平方メートルあります。堀に面する東面と南面には石垣を登ろうとする敵を撃退する石落しも設けられています。
一番から七番までの櫓の内、四番櫓・五番櫓・七番櫓は明治維新の大火(1868)で消失し、二番櫓・三番櫓は第2次大戦の空襲(1945)で消失してしまいました。戦災焼失を免れた一番櫓・六番櫓ですが、破損はひどく、国の重要文化財に指定された昭和28年から翌年にかけて行われた応急修理ではまずこの2棟から着手されています。その後一番櫓は昭和38年11月から同40年3月にかけて本格的な解体修理が行われ、今に見る江戸時代の姿に戻されました。
昭和28年に重要文化財に指定されたころ、この櫓の創建年代は徳川幕府による大坂城再築工事の最終年にあたる寛永6年と推定されていました。解体修理の際、直接創建年代を示す証拠は発見されませんでしたが、寛永8年(1668)の補修の痕跡が発見されたことにより、少なくとも創建はこの年より前にさかのぼること、寛永5年創建が判明した六番櫓と同じ構造をしていることから、現在この櫓の創建年代は寛永5年とされています。

大阪城天守閣

一番櫓。紅葉もしてきています

一番櫓。紅葉もしてきています

狭間も(写真には写ってないですが)石落しもありました

狭間も(写真には写ってないですが)石落しもありました

天井部分

天井部分

天井部分

天井部分

櫓内は暗くて写真写りがどれも悪いんですが。瓦などもちょこっと展示?されていました

櫓内は暗くて写真写りがどれも悪いんですが。瓦などもちょこっと展示?されていました

二階へ上がる階段

二階へ上がる階段

残念ながら二階へは上がれません

残念ながら二階へは上がれません

金蔵

重要文化財 金蔵

金蔵とは
金蔵は本丸内部、現在の大阪市水道局配水池の南側に立つ徳川時代大坂城の古建造物で、幕府の金銀(御用金)保管庫の役割を果たしました。「きんぞう」あるいは「かねぐら」「かなぐら」といろいろな読みかたをしますが、江戸時代には通常「御金蔵(ごきんぞう)」と呼ばれていました。江戸幕府の金蔵は江戸城と大坂城に置かれ、二条城・駿府城や甲府にも小規模なものがありましたが、幕府の金蔵として現存するのはこれ1棟のみです。

金蔵の歴史
豊臣家が滅亡した大坂夏の陣後、徳川幕府は元和5年(1619)に大坂城を直接の管轄下におき、翌年から城の全面的な再築工事を行いました。ここに金蔵ができたのは三代将軍徳川家光の時代、大坂城本丸の築造が進められていた寛永2年(1625)か、その翌年ごろと考えられます。ちなみに現在大阪城内に残る古建造物はすべてこの徳川再築後のもので、豊臣時代の遺構は石垣を含めて地上には全く残されていません。
当初の金蔵は、今の金蔵の西北、現在の配水池南縁付近にあり、東西に長いつくりでした。現在の南北に長い金蔵は、これまで、当初あった金蔵が場所を替えたものだと考えられてきましたが、「大坂御城代公用人諸事留書」(大阪市史編纂所蔵)の記述により、寛延4年(=宝暦元年、1751)に新たに築かれたものであることが明らかになりました。構造にあたっては「御本丸御金蔵脇御多聞御金蔵取立候」とあることから、その場所にあった多聞(石垣上に作られた長屋状の建物)を転用・改造したと考えられます。この金蔵はのちに「新御金蔵」と呼ばれ、当初の金蔵を「元御金蔵」と呼んで区別しました。なお「新御金蔵」は天保8年(1837)に大規模な改築が行われたことが、解体修理時に発見された墨書や、当時大坂城警備にたずさわっていた大名の記録でもわかっています。
この2棟の金蔵は明治維新の大坂城大火に際しても幸い焼け残りましたが、「元御金蔵」は明治25年(1892)の配水池建設に際して現存金蔵の東隣に移築され、さらに昭和4年(1929)、陸軍によって解体され高槻工兵隊の建物として転用されました(のち焼失)。現在の「新御金蔵」についても、入口が南向きに変えられるなど陸軍によって改変がほどこされ、また第二次大戦後の荒廃によっていちじるしい破損をこうむっていましたが、昭和28年6月13日に国の重要文化財に指定され、昭和34年から36年にかけての解体修理によって天保8年改築時の状態に戻されて現在に至っています。

大阪城天守閣

金蔵

金蔵

大手口多門櫓・千貫櫓

重要文化財 大手口多門櫓

構造と防御機能
大手口枡形の石垣上に建ち、大手門を越えて侵入した敵を迎えうつ役割を果たしました。枡形の北、下に櫓門(大手口大門)を有する渡櫓と、その東につながる続櫓とからなっていますが、枡形の南にあった「市多聞」とよばれる建物は現存していません。
渡櫓内部は4室からなっています。中央は約70畳敷(ただしこの部屋での1畳は98.5センチ×210.6センチ)の広さを持ち、南側には櫓門を通る敵を攻撃する「槍落とし」の装置を備えています。続櫓は西に武者走り(廊下)、東に9畳・9畳・12畳・9畳・15畳・12畳と6室の部屋があり(ただしこの部屋での1畳は98.5センチ×192センチ)、銃眼を備えた笹石が枡形内部に17並んでいます。
櫓門の総鉄張の扉、槍落とし、枡形内部に向けられた銃眼など、大手口を守る様々な工夫がこなされており、また外観から想像される以上に内部が広く、兵士が多数駐屯できるようになっています。

大阪城天守閣

多門櫓。流石に長いです

多門櫓。流石に長いです

千貫櫓。現在古建造物は修理中の所が多く、幕や工事足場などで覆われてる状態です

千貫櫓。現在古建造物は修理中の所が多く、幕や工事足場などで覆われてる状態です

狭間

狭間

千貫櫓内

千貫櫓内

千貫櫓内。こちらも2階へは上がれません

千貫櫓内。こちらも2階へは上がれません

おまけ

こちらがチケット

こちらがチケット

おまけのピンバッチ

おまけのピンバッチ

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